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Marie Colvin BIOGRAPHY
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Marie Colvin BIOGRAPHY
メリー・コルヴィン バイオグラフィー
1956年 1月12日 |
アメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランドに生まれる。 |
1978年 | 人類学の学士号を取得し、エール大学を卒業。 |
1979年 | ジャーナリストを目指し、UPI通信社に入社。夜勤の警察番記者から、ニューヨーク、ワシントン勤務となる。 |
1984年 | UPI通信社のフランス・パリ局長に任命される。 |
1986年 | 英国サンデー・タイムズ社に移籍。リビア・アラブ共和国の最高指導者・カダフィ大佐の取材に成功。その後も、ロンドンに拠点を置きながら、レバノン内戦や第1次湾岸戦争、チェチェン紛争、東ティモール紛争など、世界中の戦場や紛争地などの危険な取材を重ねる。 |
2000年 | 外国人記者協会 ジャーナリスト・オブ・ジ・イヤー受賞。国際女性メディア財団 ジャーナリズムの勇気賞受賞。 |
2001年 4月16日 |
スリランカ内戦を反政府組織「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)側からの取材中、同国軍が放ったロケット砲弾(RPG)によって、左目を失明。この事故により、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を負いながらも、現場に復帰。それを機に付けるようになった“黒い眼帯”は、彼女のトレードマークとなる。 英国プレス賞 海外記者賞受賞。 |
2002年 | 2番目の夫だったボリビア人記者が自らの命を絶つ。 |
2009年 | 英国プレス賞 海外記者賞、2度目の受賞。 |
2011年 | チュニジア、エジプト、リビアにおいて、大規模反政府デモ「アラブの春」を報道する際、再びカダフィ大佐を取材。 |
2012年 2月22日 |
シリア内戦が起きていたシリア・ホムス市で反政府勢力を取材。ババアム地区に駐留し、衛星電話を介してBBC、チャンネル4、CNNおよびITNニュースに出演。その際、「今日、幼い子どもが死ぬ現場に居合わせました。爆弾の金属片が当たった本当に恐ろしい状況でした。彼は小さなお腹を波打たせながら、死んでいきました」という現状を伝える。その数時間後、政府軍の砲弾を受けて死亡。享年56。 |
2012年 3月12日 |
ニューヨークのオイスター湾にて、葬儀が行われる。彼女は火葬され、灰の半分はロングアイランド沖に、残りの半分は最後の住居近くにあったテムズ川にまかれた。 その後、サンデー・タイムズ社はメリー最後の記事を、無料でオンライン公開。そこで彼女はホムスについて、次のように書いている。「ここは、砲弾と銃撃戦の音がこだまする冷気と飢えの街だ。人々のくちびるは、こう問いかけている。“私たちは世界から見捨てられてしまったのか?”」 |
2012年 7月18日 |
ヴァニティ・フェア誌にマリエ・ブレンナーのよるメリーに関する記事「Marie Colvin’s Private War」が掲載。 アンナ・ポリトコフスカヤ賞受賞。英国プレス賞 海外記者賞、3度目の受賞。 その後も、彼女の功績を称え、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校にて、メリー・コルヴィンセンターを設立。また、ロングアイランドコミュニティ財団を通じて、メリー・コルヴィン記念基金が設立。 |
2016年 7月 |
メリーの家族を代表する弁護士が、シリア政府が彼女の暗殺を直接命令したという証拠を得たと主張し、シリア・アラブ共和国政府に対して民事訴訟を提起。 |
2018年 11月 |
映画『プライベート・ウォー』全米公開。 |
2019年 1月 |
シリア政府がメリー暗殺の罪を認め、彼女の家族に約3億ドルの損害賠償が支払われることに。 |